東條英機宣誓供述書(その2)

作成:平成18年11月05日 / 更新:平成18年11月11日

第二次近衞内閣の成立とその當時に於ける内外の情勢

先づ私が初めて政治的責任の地位に立つに至つた第二次近衞内閣の成立に關する事實中、後に起訴事實に關係を有つて來る事項の陳述を續けます。私は右政變の約一ケ月前より陸軍の航空總監として演習のため滿洲に公務出張中でありました。七月十七日陸軍大臣より歸京の命令を受けましたにつき、同日奉天飛行場を出發、途中平壤に一泊翌十八日午後九時四十分東京立川着、直ちに陸軍大臣官邸に赴き、前内閣崩解の事情、大命が近衞公に下つた事、其他私が陸相候補に推薦された事等を聞きました。其時の印象では大命を拜された近衞公はこの組閣については極めて愼重であることを觀取しました。乃ち近衞公は我國は今後如何なる國策を取るべきか、殊に當時我國は支那事變遂行の過程に在るから、陸軍と海軍との一致、統帥と國務との調整等に格別の注意を拂はれつつあるものと了解しました。

その夜、近衞首相候補から通知があつたので、翌七月十九日午後三時より東京杉並區荻窪に在る近衞邸に出頭しました。此時會合した人々は、近衞首相候補と、海軍大臣吉田善吾氏、外相候補の松岡洋右氏及私即ち東條四人でありました。この會談は今後の國政を遂行するに當り國防、外交及内政等に關し在る程度の意見の一致を見るための私的會談でありましたから、會談の記録等は作りません。之が後に世間でいふ荻窪會談なるものであります。近衞首相は今後の國策は從來の經緯に鑑みて支那事變の完遂に重きを置くべきこと等を提唱せられまして、之には總て來會者は同感であり、之に努力すべきことを申合わせました。政治に關する具體的のことも話に出ました。内外の情勢の下に國内體制の刷新、支那事變解決の促進、外交の刷新、國防の充實等がそれであります。其の詳細は今日記憶して居りませぬが後日閣議に於て決定せられた基本國策要綱の骨子を爲すものであります。陸軍側も海軍側も共に入閣につき條件をつけたようなことはありませんが、自分は希望として支那事變の解決の促進と國防の充實を望む旨を述べました。此の會合は單に意見の一致を見たといふに止まり、特に國策を決定したといふ性質のものではありません。閣僚の選定については討議せず、之は總て近衞公に一任しましたが、我々はその結果については通報を受けました。要するに檢事側の謂ふが如きこの場合に於て「權威ある外交國策を決定したり」といふことは(檢察文書〇〇〇三號)事實ではありません。その後近衞公爵に依り閣僚の選定が終り、同月二十二日午後八時親任式がありました。

當時私は陸相として今後に臨む態度として概ね次の三つの方針を定めました。即ち(一)支那事變の解決に全力を注ぐこと、(二)軍の統帥を一層確立すること、(三)政治と統帥の緊密化並に陸海軍の協調を圖ること、これであります。

ここに私が陸相の地位につきました當時私が感得しました國家内外の情勢を申上げて置く必要があります。此の當時は對外問題としては第一に支那事變は既に發生以來三年に相成つて居りますが、未だ解決の曙光をも見出して居りません。重慶に對する米英の援助は露骨になつて來て居ります。これが支那事變解決上の重大な癌でありました。我々としてはこれに重大關心を持たざるを得ませんでした。第二に第二次歐洲大戰は開戰以來重大なる變化を世界に與えました。東亞に關係ある歐洲勢力、即ち「フランス」及び和蘭は戰局より脱落し、「イギリス」の危殆に伴ふて「アメリカ」が參戰するといふ氣配が濃厚になつて來て居ります。それがため戰禍が東亞に波及する虞がありました。從つて帝國としてはこれ等の事態の發生に對處する必要がありました。第三に米英の日本に對する經濟壓迫は日々重大を加へました。これは支那事變の解決の困難と共に重要なる關心事でありました。

對内問題について言へば第一に近衞公提唱の政治新體制問題が國内を風靡する樣相でありました。之に應じて各黨各派は自發的に解消し又は解消するの形勢に在りました。第二に經濟と思想についても新體制の思想が盛り上がつて來て居りました。第三に米英等諸國の我國に對する各種の壓迫に伴ひ自由主義より國家主義への轉換といふ與論が盛んになつて來て居りました。

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