東條英機宣誓供述書(その1)

作成:平成18年11月05日 / 更新:平成18年11月11日

わが經歴

私は一八八四年(明治十七年)東京に生れ、一九〇五年(明治三十八年)より一九四四年(昭和十九年)に至る迄陸軍士官となり、其間先任順進級の一般原則に據り進級し、日本陸軍の服務規律の下に勤務いたしました。私は一九四〇年(昭和十五年)七月二十二日に、第二次近衞内閣成立と共に其の陸軍大臣に任ぜられる(當時陸軍中將)迄は一切政治には關係しませんでした。私はまた一九四一年(昭和十六年)七月十八日成立の第三次近衞内閣にも陸軍大臣として留任しました。一九四一年十月十八日、私は組閣の大命を蒙り、謹んで之を拜受し當初は内閣總理大臣、陸軍大臣の外、内務大臣も兼攝しました。(同日陸軍大將に任ぜらる)。内務大臣の兼攝は一九四二年(昭和十七年)二月十七日に解かれましたが、其後外務大臣、文部大臣、商工大臣、軍需大臣等を兼攝したことがあります。一九四四年(昭和十九年)二月には參謀總長に任ぜられました。一九四四年(昭和十九年)七月二十二日内閣總辭職と共に總ての官職を免ぜられ、豫備役に編入せられ、爾來、何等公の職務に就いては居りませぬ。即ち私は一九四〇年(昭和一五年)七月二十二日に政治上責任の地位に立ち、皮肉にも、偶然四年後の同じ日に責任の地位を去つたのであります。

以下私が政治的責任の地位に立つた期間に於ける出來事中、本件の御審理に關係あり、且參考となると思はれる事實を供述します。ここ[玆]に明白に申上げて置きますが私が以下の供述及檢事聽取書に於て「責任である」とか「責任の地位に在つた」とかいふ語を使用する場合には其事柄又は行爲が私の職務範圍内である、從つて其事に付きては政治上私が責を負ふべき地位に在るといふ意味であつて、法律的又は刑事的の責任を承認するの意味はありませぬ。

但し、ここに唯一つ一九四〇年前の事柄で、説明を致して置く必要のある事項があります。それは外でもない一九三七年六月九日附の電報(法廷證六七二號)のことであります。私は關東軍參謀長としてこの電報を陸軍次官並に參謀次長に對して發信したといふ事を否認するものではありませぬ。然し乍ら檢察側文書〇〇〇三號の一〇四頁に引用せられるものは明瞭を缺き且歪曲の甚だしきものであります。檢察官は私の發した電文は『對「ソ」の作戰に關し』打電したと言つて居りますが、右電文には實際は『對「ソ」作戰準備の見地より』とあります。又摘要書作成者は右電文が『南京を攻撃し先づ中國に一撃を加へ云々』と在ることを前提とするも電報本文には『南京政權に一撃を加へ』となつて居るのであります。(英文にも右と同樣の誤あり、而も電文英譯は檢事側證據提出の譯文に依る)。本電は滿洲に在て對「ソ」防衞及滿洲國の治安確保の任務を有する關東軍の立場より對「ソ」作戰準備の見地より日支國交調整に關する考察に就て意見を參謀長より進達せるものであつて、軍司令官より大臣又は總長に對する意見上申とは其の重大性に就き相違し、下僚間の連絡程度のものであります。

當時支那全土に排日思想風靡し、殊に北支に於ける情勢は抗日を標榜せる中國共産軍の脅威、平津地方に於ける中國共産黨及び抗日團體の策動熾烈で北支在留邦人は一觸即發の危險情態に曝されて居りました。此儘推移したならば濟南事件(一九二八年)南京事件(一九二八年)上海事件(一九三二年)の如き不祥事件の發生は避くべからずと判斷せられました。而して其の影響は絶えず滿洲の治安に惡影響を及ぼして居り關東軍としては對ソ防衞の重責上、滿洲の背後が斯の如き不安情態に在ることは忍び得ざるものがありました。之を速に改善し平靜なる状態に置いて貰ひたかつたのであります。中國との間の終局的の國交調整の必要は當然であるが、排日抗日の態度を改めしむることが先決であり、之がためには其の手段として挑撥行爲のあつた場合には彼に一撃を加へて其の反省を求むるか、然らざれば國防の充實に依る沈默の威壓に依るべきで、其の何れにも依らざる、御機嫌取り的方法に依るは却て支那側を増長せしむるだけに過ぎずとの觀察でありました。この關東軍の意見が一般の事務處理規律に從ひ私の名に於いて發信せられたのであります。

この具申を採用するや否やは全局の判斷に基く中央の決定することであります。然し本意見は採用する處とはなりませんでした。蘆溝橋事件(一九三七年七月七日)は本電とは何等關係はありません。蘆溝橋事件及之に引續く北支事變は頭初常に受け身であつたことに依ても知られます。

奥付