東條英機宣誓供述書(その10)

作成:平成23年07月15日 / 更新:平成23年07月15日

南部佛印進駐問題

三六

一九四〇年(昭和十五年)九月我國は佛國との間に自由なる立場に於ける交渉を遂げ北部佛印に駐兵したことは前に述べた通りであります。爾來北部佛印に於ては暫く平靜を保ちましたが、一九四一年(昭和十六年)に入り南方の情勢は次第に急迫を告げ、我國は佛國との間に共同防衞の議を進め、一九四一年(昭和十六年)七月二十一日にはその合意が成立しました。之に基き現地に於て細則の交渉を爲し此の交渉も同月二十三日には成立し、之に基いて一部の軍隊は二十八日に、主力は二十九日に進駐を開始したのであります。尤も議定書は同月二十九日に批准せられました。以上はその經過の大略であります。

三七

右の日、佛印共同防衞議定書の締結に至る迄の事情に關し陳述いたします。之は一九四一年(昭和十六年)六月二十五日の南方施策促進に關する件といふ連絡會議決定に基くものであります。此の決定は源を同年一月三十日の連絡會議決定である、前記「對佛印泰施策要綱」に發して居るのであります。その當時は佛印特定地點に航空及船舶基地の設定及之が維持のため所要機關の派遣を企圖したのでありましたが情勢が緩和致しましたから、之を差控へることにしました。然るにその後又情勢が變化し、わけても蘭印との通商交渉は六月十日頃には決裂状態にあることが判明しました。そこで同年六月十三日の連絡會議の決定で「南方施策促進に關する件」を議定しましたが松岡外相の要望で一時之を延期し之を同月二十五日に持越したのであります。(證一三〇六號)斯樣な次第でありますから南部佛印進駐のことは六月二十二日の獨「ソ」開戰よりも十日以前に決心せられたもので決して獨「ソ」の開戰を契機として考へられたものではありません。此の「南方施策促進に關する件」は統帥部の切なる要望に基いたもので私は陸軍大臣として之に關與致しました。此の決定の實行に關する外交は松岡外相が事に當り又七月十八日第三次近衞内閣となつてからは、豐田外相がその局に當つたものであります。

本交渉に當り近衞内閣總理大臣より佛國元首「ペタン」氏に對し特に書翰を以て佛國印度支那に對する佛國の主權及領土の尊重を確約すべき意向を表明致して居ります(辯護側文書二八一四号)。此の書簡中の保障は更に兩國交換文中に繰り返されて居ります。(法廷證六七四-A英文記録七〇六三頁)

三八

南方施策促進に關する件の内容は本文自身が之を物語るでありませう。その要點は凡そ三つあります。(一)東亞の安定並に領土の防衞を目的とする日佛印間軍事結合關係の設定(二)その實行は外交交渉を以て目的の達成を圖ること(三)佛印側が之に應ぜざる時は武力をもつてその貫徹を圖る。從つて之がためには軍隊派遣の準備に着手するといふことであります。然しその實行に當つては後段に述ぶる如くに極めて圓滑に進行致し武力は行使せずにすみました。

三九

右に基いて我國と佛印の間に決定しましたのが日佛印共同防衞議定書であります。(法廷證六五一號)此議定書の要點は四つあります。(一)は佛印の安全が脅威せらるゝ場合には日本國が東亞に於ける一般的靜謐及日本の安全が危機に曝されたりと認めること、(二)佛印の權利利益特に佛印の領土保全及之に對する佛蘭西の主權の尊重を約すること、(三)「フランス」は佛印に關し第三國との間に我國に非友誼的な約束を爲さざること、(四)日佛印間に佛印の共同防衞のための軍事的協力を爲すこと。但し此の軍事上の協力の約束は之を必要とする理由の存續する間に限るといふことであります。

四〇

然らば何故に斯る措置を爲す必要があつたかと申しますに、それには凡そ五つの理由があります。その一つは支那事變を急速に解決するの必要から重慶と米、英、蘭の提携を南方に於て分斷すること、その二は米英蘭の南方地域に於ける戰備の擴大、對日包圍圏の結成、米國内に於ける戰爭諸準備並に軍備の擴張、米首腦者の各種の機會に於ける對日壓迫的の言動、三つは前二項に關聯して對日経済壓迫の加重、日本の生存上必要なる物資の入手妨害、四つは米英側の佛印、泰に對する對日離反の策動、佛印、泰の動向に敵性を認めらるること、五は蘭印との通商會談の決裂並に蘭印外相の挑戰的言動等であります。

以上の理由、特に對日包圍陣構成上、佛印は重要な地域であるから何時米英側から同地域進駐が行はれないとは言へないのであつて日本としては之に對し自衞上の措置を講ずる必要を感じたのであります。

四一

右、日佛印共同防衞を必要とした事情は此の事件につき重大な關係を有する點と考へますから、右の五種の事由につき一々、事實に基いて簡單なる説明を加へたいと存じます。

本材料は當時私が、大本營、陸海軍省、外務省其他より受けたる情報又は當時の新聞電報、外国放送等に依り承知しありしものを記憶を喚起し蒐録せるものであります。(辯護側證第二九二三)

先づ第一の米英側の重慶に對する支援の強化につき私の當時得て居つた数種の報道を擧げますれば(1)一九四〇年(昭和十五年)七月にはハル國務長官は英國の「ビルマルート」經由援蒋物資禁止方につき反対の意見を表明して居ります。(2)一九四〇年(昭和十五年)十月には「ルーズヴエルト」大統領は「デイトン」に於て國防のため英國及重慶政權を援助する旨の演説を致しました。(3)一九四〇年(昭和十五年)十一月には米國は重慶政權に一億弗の借款を供與する旨發表いたしました。(4)一九四〇年(昭和十五年)十二月二十九日には「ルーズヴエルト」大統領は三國同盟の排撃並に民主主義國家のため米國を兵器廠と化する旨の爐邊談話を放送しました。(5)一九四〇年(昭和十五年)十二月三十日には「モーゲンソー」財務長官は重慶及「ギリシヤ」に武器貸與の用意ある旨を演説して居ります。一九四一年(昭和十六年)に入り此種の發表は其數を加へ又益々露骨となつて來ました。(6)一九四一年(昭和十六年)五月「クラケツト」准將一行は蒋軍援助のため重慶に到着しました。(7)一九四一年(昭和十六年)二月には「ノツクス」海軍長官は重慶政府は米國飛行機二百臺購入の手續を了したる旨を発表しました。(8)同海軍長官は一九四一年(昭和十六年)五月には中立法に反對の旨を表明致して居ります。(9)その翌日には「スチムソン」陸軍長官も同様の聲明を致しました。斯る情勢に於ては支那事變の迅速解決を望んで居つた我國としては蒋政權に對し直接壓迫を加ふるのみならず佛印及泰よりする援助を遮斷し兩者の關係を分斷する必要がありました。

四二

第二の米、英、蘭の南方に於ける戰備強化については當時私は次の報道を得て居りました。

(1)米國は一九四〇年(昭和十五年)七月より一九四一年(昭和十六年)五月迄の間には三百三十億弗以上の巨額の軍備の擴張を爲したるものと觀察せられました。(2)此當時米英側の一般戰備並にその南方諸地域に於ける聯携は益々緊密を加へ活氣を呈するに至りました。即ち一九四〇年(昭和十五年)八月には「ノツクス」海軍長官は「アラスカ」第十三海軍區に新根據地を建設する旨公表したとの情報が入りました。(3)同年九月には太平洋に於ける米國属領の軍事施設工事費八百萬弗の内譯が公表せられました。(4)同年十二月には米國は五十一ケ所の新飛行場建設及改善費四千萬弗の支出を「スチムソン」「ノツクス」及「ジヨオンズ」の陸、海、財各長官が決定したと傳へられました。此等は米國側が日本を目標とした戰爭諸準備並に軍備擴張でありました。

一九四〇年(昭和十五年)九月には日佛印關係につき國務省首腦部は協議し同方面の現状維持を主張する旨の聲明が發せられました。同年七月八日には「ヤーネル」提督はUP通信社を通じ對日強硬論を發表して居ります。同年十月には「ノツクス」海軍長官は「ワシントン」に於て三國同盟の挑發に應ずる用意ありと演説しました。又同年九月には米海軍省は一九四〇年(昭和十五年)度の米海軍の根本政策は兩洋艦隊建設と航空強化の二點にありと強調致しました。一九四〇年(昭和十五年)十一月「ラモント」氏は對日壓迫強化の場合財界は之に協力し支持するであらうと演説致して居ります。同年同月十一日休戰紀念日に於ては「ノツクス」海軍長官は行動を以て全體主義に答へんと強調したりとの報を得て居ります。同年同月英國の「イーデン」外相は下院に於て對日非協力の演説を致しました。更に一九四一年(昭和十六年)に入り五月二十七日に「ルーズヴエルト」大統領は無制限非常時状態を宣言いたしました。

これより先一九四〇年(昭和十五年)十月八日には米國政府は東亞在住の婦女子の引上げを勸告して居ります。上海在住の米國婦女子百四十名は同月中上海を發し本國に向かひました。米本國では國務省は米人の極東向け旅券發給を停止したのであります。同じ一九四〇年(昭和十五年)十月十九日に日本名古屋市にある米國領事館は閉鎖しました。

以上は當時陸軍大臣たる私に報告せられたる事實の一端であります。

四三

第三の經濟壓迫の加重、日本の生存上必要なる物資の獲得の妨害につき當時發生したことを陳べます。一九三九年(昭和十四年)七月二十六日「アメリカ」の我國との通商航海條約廢棄通告以來米國の我國に對する經濟壓迫は日々に甚だしきを加へて居ります。その事實中、僅かばかりを記憶に依り陳述致しますれば、一九四〇年(昭和十五年)七月には「ルーズヴエルト」大統領は屑鐵、石油等を禁輸品目に追加する旨を發表致しました。米國政府は同年七月末日に翌八月一日より飛行機用「ガソリン」の西半球外への輸出禁止を行ふ旨發表いたして居ります。同年十月初旬には「ルーズヴエルト」臺帳料は屑鐵の輸出制限令を發しました。以上のうち殊に屑鐵の我國への輸出制限は當時の鐵材不足の状態と我國に行はれた製鐵方法に鑑み我朝野に重大な衝動を與へたのであります。

四四

第四の米英側の佛印及泰に對する對日離反の策動及佛印泰に敵性動向ありと認めた事由の二、三を申上げますれば、泰、佛印の要人は一九四〇年(昭和十五年)以來「シンガポール」に在る英國勢力と聯絡しつつあるとの情報が頻々として入りました。その結果日本の生存に必要なる米及「ゴム」を此等の地區に於て買取ることの防碍が行はれたのであります。日本の食糧事情としては當時(一九四一年即昭和十六年頃にあつては)毎年約百五十萬噸(日本の量目にて九百萬石)の米を佛印及泰より輸入する必要がありました。此等の事情のため日佛印の間に一九四一年(昭和十六年)五月六日に經濟協定を結んで七十萬噸の米の入手を契約したのでありましたが佛印は契約成立後一ケ月を經過せざる六月に協定に基く同月分契約量十萬噸を五萬噸に半減方申出て來ました。日本としては止むなく之を承諾しましたところ七、八月分に付ても亦契約量の半減を申出るといふ始末であります。泰に於ては英國は一九四〇年(昭和十五年)末に泰「ライス」會社に對して「シンガポール」向け泰米六十萬噸といふ大量の發註を爲し日本が泰に於ける米の取得を妨碍致しました。「ゴム」に付ては佛印の「ゴム」の年産は約六萬噸であります。その中日本は僅かに一萬五千噸を米弗拂で入手して居たのでありますが、一九四一年(昭和十六年)六月中旬米國は佛印の「ハノイ」領事に對し佛印生産ゴムの最大量の買付を命じ日本の「ゴム」取得を妨碍し又、英國はその屬領に對し一九四一年(昭和十六年)五月中旬日本及圓ブロツク向け「ゴム」の全面的禁止を行ひました。

四五

第五の蘭印との經濟會談の決裂の事由は次の通りであります。一九四〇年(昭和十五年)九月以來我國は蘭印との交渉に全力を盡くしました。當時石油が米英より輸入を制限せられたため我國としては之を蘭印より輸入することを唯一の方法と考へ其の成立を望んだのであります。然るに蘭印の方も敵性を帶び來り六月十日頃には事實上決裂の状態に陷り六月十七日にはその聲明を爲すに至つたのであります。「オランダ」外相は五月上旬「バタビヤ」に於て蘭印は挑戰に對しては何時にても應戰の用意ありと挑撥的言辭を弄して居ります。

以上のような譯で當時日本は重大なる時期に際會しました。日本の自存は脅威せられ且以上のような情勢の下で統帥部の切なる要望に基き六月廿五日に右南方施策促進に關する件(證第一三〇六號)が決定せられ之に基く措置をとるに至つたのであります。

四六

日本政府と「フランス」政府との間には七月廿一日正午(「フランス」時間)共同防衞の諒解が成立し、七月二十二日午前中に交換公文(法廷證六四七號ノA)が交換せられ、兩國政府より之を現地に通報し現地に於てはその翌二十三日細目の協定が成立し、海南島三亞に集結して居つた部隊にはその日進駐の命令が發せられ、二十五日三亞を出發しました。廿六日には之を公表しました。三亞を出發した部隊の一部は二十八日に「ナトラン」に、二十九日主力は「サンヂヤツク」に極めて平穩裡に上陸を開始したのであります。日本政府と「ヴイシー」政府との間の議定書は日佛印共同防衞議定書(證六五一)は二十九日調印を見て居ります。

四七

「フランス」政府との交渉につき我方が「ドイツ」政府に斡旋を求めたことは事實でありますが、「ドイツ」外相は此の斡旋を拒絶して來ました。從つて起訴状にある如く「ドイツ」側を經て「フランス」を壓迫したといふ事實はありません。又起訴状は「ヴイシー」政府を強制して不法武力を行使したと申しますが、しかし、日本軍が進駐の準備として三亞に集結する以前に既に「フランス」政府と日本政府との交渉は成立して居りました。又、前に述べます如く、此の措置は「ドイツ」の對「ソ」攻撃と策應したといふ事實もないのであります。日本が南方に進出したのは止むを得ざる防衞的措置であつて断じて米、英、蘭に對する侵略的基地を準備したのではありません。

一九四一年(昭和十六年)十二月七日の米國大統領よりの親電(法廷證一二四五號J)に依れば

「更に本年春及夏「ヴイシー」政府は佛印の共同防衞のため更に日本軍を南部佛印に入れることを許可した。但し印度支那に對して何等攻撃を加へられなかつたこと並にその計畫もなかつたことは確實であると信ずる」

と述べられて居ります。乃ち佛印に對しては攻撃を行つた事もなく攻撃を計畫した事もなかつたと断言し得ると信じます。

當時日本の統帥部も政府も米國が全面的經濟斷交を爲すものとは考へて居りませんでした。即ち日米交渉は依然繼續し交渉に依り更に打開の道あるものと思つたのであります。何故なれば全面的經濟斷交といふものは近代に於ては經濟的戰爭と同義のものであるからであります。又檢察側は南部佛印進駐を以て米英への侵略的基地を設けるものであると斷定致して居ります。之は誣告であります。南部佛印に設けた航空基地が南を向いて居ることはその通りでありますが、南方を向いて居るといふことが南方に對する攻撃を意味するものではありません。之は南方に向かつての防禦のための航空基地であります。そのことは大本營が四月上旬決定した對南方施策に關する基本方針(證一三〇五)に依つても明かであります。

これには我國の南進が佛印及泰を限度として居ります。然も平和的手段に依り目的を達せんとしたものであります。

奥付