東條英機宣誓供述書(その7)

作成:平成18年11月05日 / 更新:平成18年11月11日

日「ソ」中立條約竝に松岡外相の渡歐

二〇

次に日「ソ」中立條約に關し陸軍大臣として私の關係したことを申上ます。一九四一年(昭和十六年)春、松岡外相渡歐といふ問題が起りました。一九四一年(昭和十六年)二月三日の連絡會議で『對獨伊「ソ」交渉案要綱』(辯護側證第二八一一號)なるものを決定しました。此の決定は松岡外相が渡歐直前に提案したものでありまして、言はば外相渡歐の腹案であつて正式の訓令ではありません。

此の「ソ」聯との交渉は「ソ」聯をして三國同盟側に同調せしめこれによって對「ソ」靜謐を保持し又、我國の國際的地位を高めることが重點であります。かくすることによつて(イ)對米國交調整にも資し(ロ)ソ聯の援蒋行爲を停止せしめ、支那事變を解決するといふ二つの目的を達せんとしたのであります。

二一

右要綱の審議に當つて問題となつた主たる點は四つあつたと記憶致します。その一つは「ソ」聯をして三國側に同調せしむることが可能であらうかといふことであります。此點については既に獨「ソ」間に不可侵條約が締結されて居り豫て内容の提示してあつた「リツペントロツプ」腹案(此本文は法廷證第二七三五號中に在り)なるものにも獨逸も「ソ」聯を三國條約に同調せしむることを希望して居り、「スターマー」氏よりもその説明があつた次第もあり、「ソ」聯をして三國に同調せしめ得ることが十分の可能性ありとの説明でありました。

その二は我國の「ソ」聯との同調に對し獨逸はどんな肚をもつて居るであらうかといふことでありました。此點については獨逸自身既に「對」ソ不可侵條約を結んで居る。

加之、現に獨逸は對英作戰をやつて居る。それ故當時の我國の判斷としては獨逸は我國が「ソ」聯と友好關係を結ぶことを希望して居るであろうと思いました。かくて「ソ」聯をして日獨に同調せしめ、進んで對英作戰に參加せしむるとの希望を抱くであらうとの見通しでありました。

その三は日「ソ」同調の目的を達するためには我國はある程度の犧牲を拂つても此の目的を達して行きたい。然らば日本として拂ふことあるべき犧牲の種類と限度如何といふ問題でありました。そこで犧牲とすべきものとしては日「ソ」漁業條約上の權利並に北樺太の油田に關する權利を還付するといふ肚を決めたのであります。尤も對獨伊「ソ」交渉案要綱には先づ樺太を買受けるの申出を爲すといふ事項がありますが之は交渉の段階として先づ此の申出をすることより始めるといふ意味であります。北樺太の油田のことは海軍にも大なる關係がありますから無論その意見を取り入れたのであります。

その四は外相の性格上もし統帥に關する事項で我國の責任又は負擔となるようなことを言はれては非常な手違となりますから、參謀總長、軍令部總長はこの點を非常に心配されました。そして特にそのことのないやうに注意を拂ひ、要綱中の五の註にも特に「我國の歐洲戰參加に關する企圖行動並に武力行使につき帝國の自主性を拘束する如き約束は行はざるものとす」との明文まで入れたのであります。

二二

此の要綱中で問題となるのはその三及四でありますが、これは決して世界の分割を爲したり、或は制覇を爲すといふ意味ではありません。唯、國際的に隣保互助の精神で自給自足を爲すの範圍を豫定するといふの意味に外なりません。

二三

當時日本側で外相渡歐の腹案として協議したことは以上の通りでありますが、當法廷で檢察側より獨逸から押收した文書であるとして提出せられたもの殊に「オツト」大使の電報(法廷證五六七乃至五六九)並に「ヒトラー」總統及「リツペントロツプ」外相松岡外相との會談録(證五七七乃五八三)に記載してあることは右腹案に甚しく相違して居ります。

松岡外相歸朝後の連絡會議並に内閣への報告内容も之とは絶對に背馳して居ります。

二四

松岡外相が渡歐したときは當時日本として考へて居つたこととは異なり獨逸と「ソ」聯との間は非常に緊張して居り「ソ」聯を三國同盟に同調せしめるといふことは不可能となりました。又、獨逸は日本と「ソ」聯とが中立條約を結ぶことを歡迎せぬ状態となつたのであります。從つてその斡旋はありません。即ち此點については我國の考へと獨逸のそれとは背馳するに至りました。結局四月十三日松岡外相の歸途「ソ」聯との間に中立條約は締結いたしましたが(證第四五號)その外に此の松岡外相渡歐より生じた實質的の外交上の利益はなにもなかつたのであります。詳しく言へば(1)松岡外相の渡歐は獨伊に對しては全く儀禮的のものであつて、何も政治的の効果はありませんでした。要綱中の單獨不媾和といふことは話にも出て居りません。(2)統帥に關することは初めより松岡に禁じたことでもあり、また「シンガポール」攻撃其他之に類する事項は報告中にもありません。(3)又、檢察官のいふ如き一九四一年(昭和十六年)二月上旬日獨の間に軍事的協議をしたといふことも事實ではありません。

二五

日「ソ」中立條約は以上の状況の下に於て締結せられたものでありまして、その後の我國の國策には大きな影響をもつものではありません。又日本の南方政策とは何の關係もありません。此の中立條約があるがため我國の「ソ」聯に備へた北方の兵備を輕くする効果もありませんでした。乍然、我國は終始此の中立條約の條項は嚴重に遵守し、その後の内閣も屡々此の中立條約を守る旨の現地を與へ獨逸側の要求がありましても「ソ」聯に對し事を構へることは一度も致しませんでした。たゞ「ソ」聯側に於ては中立條約有効期間中我國の領土を獲得する條件を以て對日戰に參加する約束をなし、現に中立條約有効期間中日本を攻撃したのであります。

奥付