東條英機宣誓供述書(その5)

作成:平成18年11月05日 / 更新:平成18年11月11日

北部佛印進駐

一三

一九四〇年(昭和十五年)九月末に行はれたる日本軍隊の北部佛印進駐については私は陸軍大臣として統帥部と共に之に干與しました。日本の南方政策は引つゞき行はれたる米英側の經濟壓迫に依り餘儀なくせられたものであつて、其の大綱は同年七月二十七日の「世界情勢の推移に伴ふ時局處理要綱」(法廷證一三一〇號)に定められてあります。この南方政策は二つの性格を有して居ります。その一は支那事變解決のため米英と重慶との提携を分斷すること、その二は日本の自給自足の經濟體制を確立することであります。ともに日本の自存と自衞の最高措置として發展したものであつて、而もこれは外交に依り平和的に處理することを期して居つたのでありますが、米英蘭の對日壓迫に依り豫期せざる實際問題に轉化して行つたのであります。

一四

私は以下に日本軍の少數の部隊を北部佛印に派遣したことにつき佛印側に便宜供與を求めたことを陳述致します。元來この派兵は專ら對支作戰上の必要より發し統帥部の切なる要望に基くのであります。

前内閣時代である一九四〇年(昭和十五年)六月下旬に佛印當局は自發的に援蒋物資の佛印通過を禁絶することを約し、其の實行を監視する爲日本より監視機關を派遣することになつたのであります。(法廷證六一八)當時「ビルマ」に於ても同樣の措置が取られました。然し實際にやつてみると少數の監視機關では援蒋物資禁絶の實施の完璧を期することの出來ぬことが判明しました。加之、佛印國境閉鎖以來重慶側は實力を以て佛印ルート再開を呼號し兵力を逐次佛印國境方面に移動したのであります。故に日本としては斯る情勢上北部佛印防衞の必要を感じました。なほ統帥部では支那事變を急速に解決するため支那奧地作戰を實行したいとの希望を抱き、それがため北部佛印に根據を持ちたいとの考を有しました。七月下旬連絡會議も之を認め政府が「フランス」側に交渉することになつたのであります。此の要求の要點は北佛自體に一定の限定兵力を置くこと、又一定の限定兵力を通過せしめることの要求であります。その兵力は前者六千、後者は二千位と記憶して居ります。右に關する外交交渉は八月一日以來、松岡外相と日本駐在の「シヤール、アルセイヌ、アンリー」佛蘭西大使との間に行はれ、同年八月三十日公文を交換し話合は妥結したのであります。(法廷證六二〇の附屬書第十ノ一、及二)。即ち日本側に於ては佛領印度支那に對する「フランス」の領土保全及主權を尊重しフランス側では日本兵の駐在に關し軍事上の特殊の便宜を供與することを約し、又此の便宜供與は軍事占領の性質を有せざることを保證して居ります。

一五

右八月三十日の松岡「アンリー」協定に於ては右の原則を定め現地に於ては日本國の要望に滿足を與ふることを目的とする交渉が遲滯なく開始せられ、速かに所期の目的を達成するため「フランス」政府は印度支那官憲に必要なる訓令を發せらるべきものとしたのであります。そこで前に監視機關の委員長として現地に出張して居つた西原少將は大本營の指導の下に右日佛兩國政府の協定に基き直ちに佛印政廳との間に交渉を開始し、九月四日には既に基礎的事項の妥結を見るに至りました。(法廷證六二〇號の附屬書第十一號)引續いて九月六日には便宜供與の細目協定に調印する筈でありましたが、不幸にも其前日たる九月五日に佛印と支那との國境に居つた日本の或る大隊が國境不明のために越境したといふ事件が起りました。(其後軍法會議での調査の結果、越境に非ざることが判明しましたが)無論これは國境偵察の爲でありましたから一彈も發射した譯ではありませんが、佛印側は之を口實として細目協定に調印を拒んだのであります。當時佛印當局の態度は表面は「ヴイシー」政府に忠誠を誓つて居つたようでありましたが、内實はその眞僞疑はしきものと觀察せられました。一方我方では派兵を急ぐ必要がありたるに拘らず、交渉が斯く頓挫し、非常に焦燥を感じましたが、それでも最後まで平和的方法で進行したしとの念を棄てず、これがため參謀本部より態々第一部長を佛印に派遣し、此の交渉を援助せしめました。その派遣に際しても參謀總長よりも、陸軍大臣たる私よりも、平和進駐に依るべきことを懇切に訓諭したのでありました。それでも細目協定が成立しませぬから、同月十八、九日頃に大本營より西原機關に對し同月二十二日正午(東京時間)を期して先方の囘答を求めよといふことを申してやりました。これは「フランス」政府自身が日本兵の進駐を承諾せるに拘らず、現地の作爲で遲延するのであるから、自由進駐も止むを得ずと考へたのであります。從つて居留民等の引上げもその前に行ひました。

佛印側との交渉は二十二日正午迄には妥結に至りませんでしたが、我方も最後に若干の讓歩を爲し、それより二時間程過ぎた午後二時過に細目協定の成立を見るに至つたのであります。(それは證六二〇號の附屬書十二號であります)然るに翌二十三日零時三十分頃に佛印と支那との國境で日佛間に戰鬪が起りました。それは當時佛印國境近くに在つた第一線兵團は南支那の交通不便な山や谷の間に分散して居つたがため、連絡が困難で二十二日午後二時の細目妥結を通知することが日本側の努力にも拘らず不可能であつたのと、「フランス」側に於ても、その通知の不徹底であつたからでありますが、此の小衝突はその日のうちに解決しました。海防方面の西村兵團は「フランス」海軍の案内に依つて海防港に入ることになつて居つたのでありますが、北方陸正面で爭の起つたのに鑑み海防港には入らず、南方の海濱に何等のことなく上陸しました。なほその後同月二十六日日本の偵察飛行隊が隊長と部下との信號の誤りから海防郊外に爆彈を落した事件が起りました。これは全くの過失に基くもので且一些事であります。

一六

要するに我國が一九四〇年(昭和十五年)九月末に佛印に派兵したことは中國との問題を早く解決する目的であつて、その方法は終始一貫平和手段に依らうとしたのであります。又實際に派遣した兵力も最小限度に止め約束限度の遙か以内なる四千位であつたと記憶します。一九四一年(昭和十六年)十二月八日、米國「ルーズベルト」大統領より天皇陛下宛の親書(法廷證一二四五號J)中に

陛下の政府は「ヴイシー」政府と協定し、これに依て五千又は六千の日本軍隊を北部佛印に入れ、それより以北に於て中國に對し作戰中の日本軍を保護する許可を得た

と述べて居ることに依ても當時の事情を米國政府が正當に解釋して居つたことを知り得ます。

以上説明しましたやうな次第で不幸にして不慮の出來事が起りましたが、之に對しては私は陸軍大臣として軍紀の振肅を目的として嚴重なる手段を取りました。即ち聯隊長以下を軍法會議にかけ、現地指揮官、大本營幕僚を或は罷免し或は左遷したのであります。之はその前から天皇陛下より特に軍の統制には注意せよとの御言葉があり、又陸軍大臣として軍の統制を一の方針として居つたのに基くもので、軍内部の規律に關することでありまして、之は固より日本が佛印側に對し國際法上の責任があることを意味したものではありません。

奥付