東條英機宣誓供述書(その8)

作成:平成18年11月05日 / 更新:平成18年11月11日

第二次近衞内閣に於ける日米交渉

二六

所謂日米諒解案(證第一〇五九號と同文)なるものを日本政府が受取つたのは一九四一年四月十八日であります。

此の日以後、政府として之を研究するようになりました。私は無論陸軍大臣として之に關與しました。但し私は職務上軍に關係ある事項につき特に關心を有して居りまして、其他のことは首相及外相が取扱はれたのであります。

斯る案が成立しましたまでのことについて私の了解するところでは、これは近衞首相が三國同盟の締結に伴ひその日米國交に及ぼす影響に苦慮せられて居つたのに淵源するのであつて、早く既に一九四〇年末より日米の私人の間に、初めは日本に於て、後には米國に於て、話合が續けられて來て居つた如くでありました。米國に於ける下交渉は日本側は野村大使了解の下に又米國側では大統領國務長官、郵務長官の了解の下に行はれて居つた旨華府駐在の陸軍武官からの報道を受けて居りました。

右諒解案は非公式の私案といふ事になつて居りますが併し大統領も國務長官も之を承知し特に國務長官から、在米日本大使に此案を基礎として交渉を進めて可なりや否やの日本政府の訓令を求められたき旨の意思表示があつた以上我々は之を公式のものと思つて居りました。即ち此の案に對する日本政府の態度の表示を求められた時に日米交渉が開始されたものと認めたのであります。

二七

此案を受取つた政府は直ちに連絡會議を開きました。連絡會議の空氣は此案を見て今迄の問題解決に一の曙光を認め或る氣輕さを感じました。何故かと言へば我國は當時支那事變の長期化に惱まされて居りました。他方米英よりの引續く經濟壓迫に苦んで居つた折柄でありますから、此の交渉で此等の問題の解決の端緒を開いたと思つたからであります。米國側も我國との國交調整に依り太平洋の平和維持の目的を達することが出來ますからこれには相當熱意をもつものと見て居りました。米國側に於て當初から藁をも掴む心持ちで之に臨み又時間の猶豫を稼ぐために交渉に當るなどといふことは日本では夢想だもして居らなかつたのであります。連絡會議は爾來數囘開會して最後に四月二十一日に態度の決定を見ました。當時は松岡外相は歐洲よりの歸途大連迄着いて居つてその翌日には着京する豫定でありました。一九四一年(昭和十六年)四月二十一日の態度決定の要旨は

といふのであります。我方では原則論に重きを置かず具體的問題の解決を重視したのであります。それは我方には焦眉の急務たる支那事變解決と自存自給體制の確立といふ問題があるからでありました。

三國同盟條約との關係の解釋に依つて此の諒解案の趣旨と調和を圖り得るとの結論に達して居りました。日米交渉を獨逸側に知らせるか否か、知らせるとすれば其の程度如何といふことが一つの問題でありましたが、此のことは外務大臣に一任するといふことになりました以上の趣旨で連絡會議の決意に到達しましたから之に基き此の案を基礎として交渉を進むるに大體異存なき旨を直ちに野村大使に電報しようといふことになりましたが、此點については外務大臣も異存はない、たゞ松岡外務大臣が明日着京するから華盛頓への打電は其時迄留保するといふ申出を爲し會議は之を承認して閉會したのでありました。

二八

しかし翌四月二十二日(一九四一年昭和十六年)松岡外相が歸つてから此の問題の進行が澁滯するに至つたのであります。松岡外相の歸京の日である四月二十二日の午後直ちに連絡會議を開いて之を審議しようとしましたが、外相は席上渡歐の報告のみをして右案の審議には入らず、これは二週間位は考へたいといふことを言ひ出しました。之が進行の澁滯を來した第一原因であります。外相は又、此の諒解案の内容を過早に獨逸大使に内報しました。之がやはり此の問題の澁滯と混亂の第二の原因となつたのであります。なほ其他外相は(A)囘訓に先だち歐洲戰爭に對する「ステーメント」を出すことを主張し(B)又日米中立條約案を提案せんとしました。此等のことのため此の問題に更に混亂を加へたのであります。松岡外相の斯の如き態度を採るには色々の理由があつたと思はれます。松岡氏は初めは此の諒解案は豫て同外相がやつて居つた下工作が發展して此のようになつて來たものであらうと判斷して居つたが、間もなく此の案は自分の構想より發生したものではなく、又一般の外交機關により生れて來たものでもないといふことを覺知するに至りました。それが爲松岡氏は此の交渉に不滿を懷くようになつて來ました。又松岡外相は獨伊に行き、その主腦者に接し三國同盟の義務履行については緊切なる感を抱くに至つたことがその言葉の上より觀取することが出來ました。なほ松岡外相の持論である、米國に對し嚴然たる態度によつてのみ戰爭の危險が避けられるといふ信念がその後の米國の態度に依り益々固くなつたものであると私は觀察しました。

二九

斯くて我國よりは漸く一九四一年(昭和十六年)五月十二日に我修正案を提出することが出來ました。(法廷證一〇七〇號)「アメリカ」側は之を我國よりの最初の申出であるといつて居るようでありますが、日本では四月十八日のものを最初の案とし之に修正を加へたのであります。此の修正案の趣旨についてその主なる點を説明すれば

元來支那問題の解決は日本としては焦眉の急であります。此の解決には二つの重點があります。その一つには支那事變自體の解決であります。その二は新秩序の承認であります、我方の五月十二日案では近衞聲明、日華基本條約及日滿華共同宣言を基本とするのでありますから、當然東亞に於ける新秩序の承認といふことが含まれて居ります。撤兵の問題は四月十八日案にも含まれて居ることになるのであります。即ち日支間に成立すべき協定に基づくといふことになつて居ります。五月十二日案も結局は日華基本條約に依るのでありますから趣旨に於て相違はありません。門戸開放のことも四月十八日案と五月十二日案とは相違しないのであります。四月十八日案には支那領土内への大量の移民を禁ずるとの條項がありますが、五月十二日案は之には觸れて居りません。

三〇

五月十二日以後の日米交渉の經過につき私の知る所を陳述いたします。五月十二日以後右の日本案を中心として交渉を繼續しました。日本に於ては政府も統帥部もその促進につとめたのでありましたが、次の三點に於て米側と意見の一致を見るに至らなかつたのであります。その一つは中國に於ける日本の駐兵問題、その二は中國に於ける通商無差別問題、その三は米國の自衞權行使に依る參戰と三國條約との關聯問題であります。五月三十日に米國からの中間提案(法廷證一〇七八)が提出されなど致しましたが、此の間の經緯は今、省略いたします。結局六月二十一日の米國對案の提出といふことに歸着いたしました。

三一

六月二十一日と言へば獨「ソ」開戰の前日であります。此頃には獨「ソ」戰の開始は蓋然性より進んで可能性のある事實として世界に認められて居りました。我々は此の事實に因り米國の態度が一變したものと認定したのであります。この六月二十一日の案は證第一〇九二號の通りでありますが、我方は之につき次の四點に注意致しました。

その一つは米國の六月二十一日案は獨り我方の五月十二日修正案に對し相當かけ離れて居るのみならず、四月十八日案に比するも米國側の互讓の態度は認められません。米國は米國の立場を固守し非友誼的であるといふことが觀取せられます。その二つは三國條約の解釋については米國が對獨戰爭に參加した場合の三國同盟條約上の我方の對獨援助義務につき制限を加へた上に廣汎なる拘束を意味する公文の交換を要求して來ました。(證一〇七八號中に在り)その三は從前の案で南西太平洋地域に關して規定せられて居つた通商無差別主義を太平洋地域の全體に適用することを求めて來たことであります。その四は移民問題の條項の削除であります。四月十八日案にも五月十二日案にも米國並に南西太平洋地域に對する日本移民は他國民と平等且無差別の原則の下に好意的考慮が與へられるであらうとの條項がありました。六月二十一日の米案はこの重要なる條項を削除して來ました。六月二十一日の米提案には口頭の覺書(オーラル・ステートメント)といふものが附いて居ります。(證一〇九一號)その中に日本の有力なる地位に在る指導者はナチ獨逸並その世界征服の政策を支持する者ありとして暗に外相の不信認を表現する辭句がありました。之は日本の關係者には内政干渉にあらざるやとの印象を與へました。以上の次第で日米交渉は暗礁に乘り上げたのであります。

三二

しかも、此の時代に次の四つのことが起りました。

以上の内一及二の原因により米國の態度は硬化し、それ以後の日米交渉は佛印問題を中心として行はるゝようになりました。四の内閣變更の措置は我方は如何にしても日米交渉を繼續したいとの念願で、内閣を更迭してまでも、その成立を望んだのでありまして、我方では國の死活に關する問題として此の交渉の成立に對する努力は緩めませんでした。前記の如く内閣を更迭しその後に於ても努力を續けたのであります。

奥付