東條英機宣誓供述書(その4)

作成:平成18年11月05日 / 更新:平成18年11月11日

三國同盟

一〇

以下日獨伊三國同盟締結に至る迄の經緯にして私の承知する限りを陳述致します。右條約締結に至る迄の外交交渉は專ら松岡外務大臣の手に依つて行はれたのであります。自分は單に陸軍大臣として之に參與致しました。國策としての決定は前に述べました第二次近衞内閣の二大國策に關係するのであります。即ち「基本國策要綱」に在る國防及外交の重心を支那事變の完遂に置き建設的にして彈力性に富む施策を講ずるといふこと(英文記録六二七三頁)及「世界情勢の推移に伴ふ時局處理要綱」の第四項、獨伊との政治的結束を強化すとの項目に該當致します。(英文記録一一七九五頁)獨伊との結束強化の眞意は本供述書九項中(A)として述べた通りであります。

この提携の問題は第二次近衞内閣成立前後より内面的に雜談的に話が續いて居りました。第二次近衞内閣成立後「ハインリツヒ、スターマー」氏の來朝を契機として、此の問題が具體化するに至りましたが之に付ては反對の論もあつたのであります。吉田海軍大臣は病氣の故を以て辭職したのでありますが、それが唯一の原因であつたとは言へません。九月四日に總理大臣鑑定で四相會議が開かれました。出席者は首相と外相と海軍大臣代理たる海軍次官及陸相即ち私とでありました。松岡外相より日獨伊樞軸強化に關する件が豫めの打合せもなく突如議題として提案せられました。

それは三國間に歐羅巴及亞細亞に於ける新秩序建設につき相互に協力を遂ぐること之に關する最善の方法に關し短期間内に協議を行ひ且つ之を發表するといふのでありました。右會合は之に同意を與へました。スターマー氏は九月九日及十日に松岡外相に會見して居ります。此間の進行に付ては私は熟知しませぬ。そして一九四〇年(昭和十五年)九月十九日の連絡會議及御前會議となつたのであります。「ここで申上げますが檢事提出の證據中一九四〇年(昭和十五年)九月十六日樞密院會議及御前會議に關する書類が見られますが(法廷證五五一號)同日に斯の如き會議が開かれたことはありません。尚ほ遡つて同年八月一日の四相會議なるものも私は記憶しませぬ。」

一九四〇年(昭和十五年)九月十九日の連絡會議では同月四日の四相會議の合意を認めました。此の會議で私の記憶に殘つて居ることは四つであります。

其の一は三國の關係を條約の形式に依るか又は原則を協定した共同聲明の形式に依るかの點でありますが、松岡外相は共同聲明の形式に依るは宜しからずとの意見でありました。

其の二は獨伊との關係が米國との國交に及ぼす影響如何であります。此點に付ては松岡外相は獨逸は米國の參戰を希望して居らぬ。獨逸は日米衝突を囘避することを望み之に協力を與へんと希望して居るとの説明でありました。

三は若し米國が參戰した場合、日本の軍事上の立場は如何になるやとの點でありますが、松岡外相は米國には獨伊系の國民の勢力も相當存在し與論に或る程度影響を與ふることが出來る。從つて米國の參戰を囘避し得ることも出來ようが、萬一米國參戰の場合には我國の援助義務發動の自由は十分之を留保することにして行きたいとの説明を與へました。

四は「ソ」聯との同調には自信ありやとの點でありますが、松岡外相は此點は獨逸も希望して居り、極力援助を與ふるとのこともありまして、參會者も亦皆松岡外相の説明を諒と致しました。

右會議後同日午後三時頃より御前會議が開かれました。同日の御前會議も亦連絡會議の決議を承認しました。此の御前會議の席上、原樞府議長より「米國は日本を獨伊側に加入せしめざるため可なり壓迫を手控へて居るが、日本が獨伊と同盟を締結し其態度が明白とならば對日壓迫を強化し、日本の支那事變遂行を妨害するに至るではないか」といふ意味の質問があり、之に對し松岡外相は「今や米國の對日感情は極度に惡化して居つて單なる御機嫌とりでは恢復するものではない。只我方の毅然たる態度のみが戰爭を避けることを得せしめるであらう」と答へました。松岡外相は其後「スターマー」氏との間に協議を進め三國同盟條約案を作り閣議を經て之を樞密院の議に附することとしたのであります。

一一

此の條約締結に關する樞密院の會議は一九四〇年(昭和十五年)九月廿六日午前十時に審査委員會を開き同日午後九時四十分に天皇陛下臨御の下に本會議を開いたのであります。(法廷證五五二號、同五五三號)樞密院審査委員會の出席者は首相、外相、陸相、海相、藏相だけであります。同本會議には小林商相、安井内相の外は全閣僚出席しました。星野氏、武藤氏も他の説明者と共に在席しましたが、これは單に説明者でありまして、審議に關する責任はありませぬ。責任大臣として出席者は被告中には私だけであります。尚ほここで申上げますがそもそも樞密院の會議録は速記法に依るのではなくして同會議陪席の書記官が説明要旨を摘録するに過ぎませんから、説明答辯の趣旨は此の會議録と全く合致するといふことは保證出來ません。此の會議の場合に於ても左樣でありました。

此の會議中私は陸軍大臣として對米開戰の場合には陸軍兵力の一部を使用することを説明しました。これは「最惡の場合」と云ふ假定の質問に對し我國統帥部が平時より年度作戰計劃の一部として考へて居つた對米作戰計畫に基いて説明したものであります。斯る計畫は統帥部が其責任に於て獨自の考に依り立てゝ居るものでありまして國家が對米開戰の決意を爲したりや否やとは無關係のものであります。統帥部としては將來の事態を假想して平時より之を爲すものであつて孰れの國に於ても斯る計畫を持つて居ります。これは統帥の責任者として當然のことであります。尚ほ此の審議中記憶に殘つて居りますことは某顧問官より「ソ」聯との同調に關し質問があつたのに對し松岡外相より條約案第五條及交換文書を擧げ獨逸側に於ても日「ソ」同調に付き周旋の勞をとるべきことを説明しました。以上樞密院會議の決定を經て翌二十七日條約が締結せられ、同時に之に伴ふ詔勅が煥發せられましたことは法廷證四三號及五五四號の通りであります。

一二

右の如く三國同盟條約締結の經過に因て明かなる如く右同盟締結の目的は之に依て日本國の國際的地位を向上せしめ以て支那事變の解決に資し、併せて歐洲戰の東亞に波及することを防止せんとするにありました。

三國同盟の議が進められたときから其の締結に至る迄之に依て世界を分割するとか、世界を制覇するとか云ふことは夢にも考へられて居りませんでした。唯、「持てる國」の制覇に對抗し此の世界情勢に處して我國が生きて行く爲の防衞的手段として此の同盟を考へました。大東亞の新秩序と云ふのも之は關係國の共存共榮、自主獨立の基礎の上に立つものでありまして、其後の我國と東亞各國との條約に於ても何れも領土及主權の尊重を規定して居ります。又、條約に言ふ指導的地位といふのは先達者又は案内者又は「イニシアチーブ」を持つ者といふ意味でありまして、他國を隸屬關係に置くと云ふ意味ではありません。之は近衞總理大臣始め私共閣僚等の持つて居つた解釋であります。

奥付